秋球儀というものがある。地球儀や月球儀のような、それだ。ただ、卓上に置けるサイズのものもあれば、幼児が両手を広げても抱えきれないものもある地球儀などとは違い、秋球儀は手のひらサイズのものしかない。手のひらのサイズといっても、手のひらに収まるくらいのある一定のサイズ、というわけではない。手のひらの大きさが人によって異なっていることから、秋球儀の大きさも人によって異なっているのだ。もちろん、年齢によっても異なる。成長にともない、おれの秋球儀も大きくなっていった。
腕を失くしたのは二十歳になった日の翌日だった。なんてことはなかった。ただ、駅のホームで電車を待っていたときに、後ろの人にトンと押されて両腕をバランスをとるために前へ伸ばしたら、たまたま快速列車がおれの腕も運んでいってしまったってだけだ。結局おれが乗ろうとしていた駅から鈍行で3時間ほどかかる終点の駅まで連れて行かれたおれの腕は、お前がおれにくれた初めての誕生日プレゼントという形となった。病室でご対面。お前は着古した白衣のしわを丹念に指先で伸ばしていて、おれはそれを見ながら、ああおれはもうそういったことができないんだな、とあとになって思い出した。そのときはそんなヨユウはなかったようにおもう。お前は白衣を脱ぐとリハビリを終えたおれのために毎晩うちへきてくれるようになった。ボクサーパンツいちまいで林檎をよく剥いてくれた。フライパンを扱いよく火傷もしていた。キリギリスが鳴いていた。
両腕を失くした患者と、その関係を特別なものに変えたとき、ぼくはぼくの秋を彼に譲ってやってもよいとおもったんです。と、医者をやめようか迷っているあたしの相談に乗ってくれた旧友が、とつとつと話し出した。このヒトコトを引き出すためにビールを何杯飲ませたことだろう。秋が終われば冬になります。では、秋を失くしてしまったものは、秋を終わらせることができるのでしょうか。ゴツン、と旧友はジョッキをテーブルに置いた。これと同じのもういっぱい、とあたしは店員へ既に告げていた。彼は、ぼくの秋球儀を受け取ってくれませんでした。というのも、受け取るための手がなかったので。だから、ぼくは、ぼくの秋球儀をかつら剥きにして、彼の首にかけてやったんです。ビールおまちどーさまでーす。こちら空いたお皿おさげしまーす。他人の秋を身にまとって迎えた冬って、やっぱつめたいんですかね。やっぱぼくのせいなんですかね。あたしは何も言わない。医者をやめた今、空は秋模様であった。そんなことないし、傘もない。
- こ
- 2014/09/30 (Tue) 20:09:16