朝のなんやかやが一段落、片づいた午前10時過ぎ。いつもの習慣でSNSを開く。
ログインして文字を打つだけで、インスタンスに作られた仲間と出会える。
中秋の名月の話題がまわって来ていたことで、そんな時期だと知った。惰性による無為な時間と過ることもあるが、歳時記を諳んじているわけでなし、こういう時はありがたい。
昼食の買い物ついでに、白玉粉を買ってきた。
かつて上新粉にお湯を注いで熱さに耐えてこねて蒸してと頑張ったこともあったが、結果は芳しくなく。だから妥協の白玉粉だ。
月見だんご気分だけでもと、だんごを積み重ねる。
九つ、四つ、二つ。これで十五。
私が九つの頃、親が戸建てを買ったので引っ越しをした。今にして思えばさほど遠くはない引っ越しだったが、それでも学区は変わり転校になった。
カタン、カタンと揺れる電車にまどろむ時間の程度、前の友人に会う為の距離が変わった。
軽く検索をかけてみたら、今宵の月はどうやら芋名月とも呼ばれるらしい。
だんごと一緒に里芋なんかを供えたりするというが、旦那は里芋が嫌いだ。ねとねとしたり、ねばねばしたり、そういうものは軒並み壊滅。
私は結構好きだったのに、食卓に並ぶ頻度が減る内に、別に食べなくてもよくなってしまった。しゃぶしゃぶはゴマだれに限ると言っていたはずなのに、今はポン酢に限ると思っている。
すり合わせに慣れた私は、里芋の代わりにじゃがいもを茹でて潰す。
月見だんごと同じようにまんまるに揚げたコロッケを重ねるのだ。
九つ、四つ、二つ。これで十五。
私が四つの頃、未熟児で生まれた妹が亡くなった。そのことは、あまり覚えていない。
ただ一つだけ、母親が言ったという言葉だけ朧に覚えている。妹は、お空の星になったのだと。
そのせいなのか、夜に空を見上げる時は、もう届かないものに思いをつなげる気分になる。
だんごとコロッケを積んだ皿を並べて、写真を撮る。ススキもなければ、鏡餅とかを置くようなあの四角いやつもない。
それでも上手いこと月と一緒にフレームに収めたり、きれいに積んだりできたので一仕事した気になっている。
写真をSNSにアップしただけで、月見を満喫していると思えてしまう。
『月見コロッケ揚がりました。でも玉子が入ってるわけじゃないよ。
きれいな段々に積めました♪』
九つ、四つ、二つ。これで十五。
私が二つの頃のことは流石に覚えていない。
写真が残っていることでしか、私がいたという真実を見つけられない。
私を抱き上げる母親の若さも、もう写真の中にしかないものなのだろう。
ただ一つだけ、母親が歌ったという歌だけ朧に覚えていたらしい。
修学旅行の長崎のグラバー通りのオルゴール館のたくさんのオルゴールの音の中に、不思議と耳馴染む曲。
母親がよく歌っていたのだと、後になって知った。
十五の頃の私は、もう一生、恋も結婚もしないんじゃないかと思っていた。
せっかくなので、ベランダに出て夜空を眺めることにした。思えば、こういう機会でもなければ、わざわざ改めて月を見ることもない。
確かにきれいなのだろう。絵に描かれた黄色の月とは違って、現実では静かな色をしていた。
どこからか、しまい忘れた風鈴の音がりん、と聴こえた。その色と音はどこか似ている。
月はただ変わらずに空にあり、光をはね返している。
誰が見ていても、誰がいなくても。
変わるのは人の方。
鈴(りん)の音は寂しさよりも、澄んだ心地よさを運んでくる。
そう感じることができるような平穏は幸せなことなのではなかろうか。
それは多分、同じ月を眺めているあなたがいるから。
- 白
- 2016/09/14 (Wed) 23:26:24