「海が燃える」や「海を焼く」というタイトルで出題しようかなといろいろ迷ったんですが結局「海が焼ける」というお題にしたのは、こういう詩が呼べたらいいなと思っていたからというのもあります。海が燃えるとか海が焼けるというのは観測者としての「私」や行為者としての「私」が強く出るけれど、海が焼けるというと、もっと客観的な(あるいは冷静な目の)イメージが強くなるとわたしは個人的には感じます。ですから投稿作も出揃ったかなというところで竹森さんがまたみなさんとは違った風味の(主観性から生じるというよりは神話的・俯瞰的視点をそなえる)作品を書いてくれていたこともまた嬉しく思いました。冷静な目、と言いましたがそれは思念がないということを意味するものではありません。竹森さんの文章の多くはユーモアをはらんでいますが、それは身を切って血を流すようなユーモアみたいだとわたしはたまに感じます。いや、身を切って血を流すことでユーモアを引き起こしているのではなくて、ユーモアを使って身を切って血を流していると言ったほうがわたしの抱いている印象を述べるのには正確かもしれません。この神話も(この作品を神話とたとえるなら)おもしろいのだけれども果たして単純におもしろがっていていいのかちょっと不安になるような、そういう書き手の強い、なにか思念みたいなものが渦巻いている感覚を覚える。自我は出ていないのに筆圧が高いです。キーホルダーの情景とかもとてもおもしろいんですが、でもどこか怖さがあって、それはきっと木にぶら下がっていたキャラクターは「hanged man」にも「縊死」にも見えてしまうからかもしれないし(もちろんイメージの可能性のひとつとしてだけれど)、それが「老木」であるからだし「痩せた子供たち」であるからだし、「それから先は数えていない」の目的語が曖昧なまま終末の情景をおびき出すからだし、とにかく、言葉やイメージの単純なおもしろさと共に、石炭でがりがりと書き付けたようななにか(この書き手、きっと目つきが怖い……と思わせるようなかんじのなにか)が同時にある。そういうのがわたしとてもいいと思うんです。
なんだか目つきが悪そうとか言って失礼な感想になっていないでしょうか、すみません。あと「要するに」がめっちゃ好きです。要するにって普通そんな使い方しませんから笑
(8時ごろ少し書き直しました)
- s.
- 2017/01/10 (Tue) 06:32:13