鉛筆の頭頂部分を嚙みながら、幼児がちいさな蟹へ小便をかけている浜辺をあとにして、いかにも70年代なカーに乗って、カーの後ろは開いていて大量の野菜が乗っけてある。ような、イメージというか妄想がふっと一瞬よぎったのだけど、一瞬、その語感のしろさに、鉛筆を噛みながら蟹へ小便をかけている幼児も、大量の野菜を積んだいかにも70年代なカーも、ぶわっとどこかへ逝って、妄想は早々しんでしまった。嗚呼、哀しい、と別段哀しくもないのに、僕の顔の瞳は垂れ下がっていて、笑っているのに泣いているように見えるとわかった今朝の春。ごめん、ちょっとよくわからないんだけど、そもそも鉛筆をガリガリ齧りながら蟹へ小便かけてる子供の描写と、この70年代のカー、ってなんやねん、町田康か、このくだりは本当に必要なのか?、と天から声が聞こえつつ、それは当然の理なのであった。なぜなら俺はキングモヤモヤCDをもう潰れるかも知れない地元スーパーマーケットで行われた京都の物産展で露店商から1200円キッカリの値段で買ったのだから。そして今まさに俺はそのキングモヤモヤCDをパソコンで再生、石油王並にモヤモヤしながら、このカダンツァのジャーン、と一番はりきってバンドが演奏を終えるところを、なぜかジャー、ブツ、っと音が切れる。なんで切れるか、な、物凄く思考がモヤモヤするCDを聞きながらこの文章を記述しているところであった。
先生、このなんやねん、町田康か、と話しているのは誰ですか?
いい質問だね、亘君、個性の時代だからね、自分で考えて
と、キュインキュイン、快速銀河鉄道小学部に配属した私はこのテキストの主体のように何かモヤモヤしたりすることもなく、日々授業を行っている。亘君もこのすべてが理路整然とした世界に於いてパラフォームテキスト理解システムに問いかければ、来週のテストでは必ずや百点満点をとれる回答ができるだろう。何も問題はない。
しかしモヤモヤではないが疑問がないわけではない。なぜ人類は宇宙へ進出してもこのテキストを、文学を捨てなかったのか。パラフォームテキスト理解システムによれば2017年には既に心理学の世界に於いてフロイトは忘れ去られた存在になっているのに。2015年には文系の進学率の減少傾向が話題に上りはじめている。
そう疑問がよぎる度に私の腕時計が明滅し、ぴぴーっ、エラーを警告する。
そして小さな電流を流すのだ。いちちっ。
悲しみは
感じるものですらなくなった
この理路整然とした世界で
我らが
祖の星
という地球の二ホンでは
南の
街では
もう
悲しみを
花火で打ち上げ始めている
らしい
私は車窓から遠く銀河を眺める。私たちは手放さなかったのか。それとも
何か忘れ物をしたまま走っているのだろうか。
ぴぴーっ。
いちちっ。
- kyouhei tanaka
- 2017/03/26 (Sun) 08:36:50