めちゃくちゃ遅くなってしまいました…。すみません…。
感想書かせていただきます。最後です!
>ぎわらさん
初見から面白い、と思いました。それから何度読んでも面白かったです。
でも感想を書くにあたって、その面白さにどういう風に近づいていけば良いのか、割りと悩みました。(ました、というか、まだ悩んでいます)
定まらない時の王道として(?)分からない部分を取っ掛かりにして読んでみようかな、と思います。稚拙な読みになってしまいますが、おつきあいいただけたら幸いです。
日曜日(一昨々日)
月曜日(一昨日)
火曜日(昨日)
水曜日(今日)○
木曜日(明日)
日曜日から木曜日までの5日間が差し出されます。私に起きたこと、私の家族に起きたことなどが、淡々と(淡々と?)私によって語られていきます。
淡々と見えるのは、その筆致から感情や情緒に属するものが注意して取り分けられているからだと思います。
でもそこに書かれているものは、いわゆる叙事とは少し様子が違います。むしろ事象が揺らぐ場所を象った篆刻のような、不思議な穴が詩中に散在しています。
日曜日は、私の話です。
>日曜日、シュークリーム屋さんに同化を請われた
>剣もない私はうやむやな返事をした
シュークリーム屋さんに請われた同化ってなんのことでしょう。ちょっと笑って考えたくなるような言葉の転じ方で、あー面白いなあと思います。シュークリーム屋になってくれ、シュークリームそのものになってくれ、シュークリーム屋であるこの家に婿入りしてくれ、シュークリーム屋である私の思想信条の下に入ってくれ、シュークリーム屋である私と国籍/本籍地を同じにしてくれ?
どれなのか(どれでもないのか)分かりませんが、シュークリーム屋の「シュークリーム屋的なものと同一になってくれ」という要請を受けた次の行では、まず、私の「剣」の不所持が説明されます。
この「剣」は、べたべたした同属化に対抗してそれを裁くもの、と思ってもいいけど、たとえば、私がシュークリーム屋的なものに同化し終えてから、シュークリーム屋的なものとして責を負って戦っていくための「剣」のことを言っているのかもしれないな、とも思いました。
どちらにせよ、私はうまく戦う術を持たないから、うやむやにごまかします。
月曜日は、父の話です。
>月曜日、 父はとなりのトトロを覗く
>(そんなもの覗いてどうするの)
父の話です、と言ってしまったあとですが、全然父の話ではないんじゃないか?という気もします。月曜日、の起声から承転まで連なる一行、それを受けたつっこみの二行目まで、美しい面白さだな、と思います。なんて言ったらいいか分からないけれど、家庭の密室で年老いた父親に窃視され(きっとカーテン越しだ)、あげく息子の方にはかなり低く見られているトトロの、画面上の深い笑顔、とかを想像して、興奮してきます。生っぽい、湿っぽい秘密のような・・・。
火曜日は、もう一度私の話です。
>火曜日 オウバアキルの詩が読みたかった
>風呂に居るとバイクが通過した
>沖縄戦を気にして居る私
ちょっとそれっぽい言い方をしてしまうのですが、「オウバアキル」「バイク」「沖縄戦」は『外界』というか…私の頭に馴染んでくる世間や世界から取り上げた、色んな記号の一部なのかなと思います。
『外界』に対する内界は、まずは家庭であるけれど、この連ではそれがさらに狭くなり、私が裸になる風呂が私の居城となっています。
そして水曜日は、母と姉の話です。
>水曜日、実母は実姉を迎えに行く
>もう2日間そうして居る
>実姉は日曜日風邪にかかって熱を出して
>月曜日会社を休んだ(火曜日にはもう会社へ)
父はただの父なのに、母にも姉にも、特別必要ではないはずの「実」が冠されています。
父がどこか家庭の暗い迷路にさまよう人に見えたのに対して、「実母」も「実姉」もしっかりと地に足のついた描写がされています。
私は「実」とつけることで、現実世界に入り浸りの母娘をやっと腑に落ちて呼べるのかもしれないですね。実の母は実の姉を迎えに行く…。
私がシュークリーム屋さんに同化を請われていた月曜日に、実姉は発熱し会社を休み、父がとなりのトトロを覗いた火曜日に、実姉はもう会社へ行っている。
「実」「実」とつけて、縮尺の違う物がむりやり家庭の中に収まっています。
成り立たない会話も、「実子」「実親」「実姉弟」「実夫婦」というくびきによって、なんらかの着地を見せてくれます。
最後に木曜日。更にまた、私のことです。
>明日は木曜日
>2月27日の原点は私有地に入らない(風呂での叫び)
>(羞恥心、うち来る シュークリーム)
>(汽笛は霧笛、汽笛編は霧笛編)
「明日は」とあることで、いままで出てきた曜日の位置が定まります。この連の私がいるのはまだ水曜日、おそらく一日の終わり頃です。
水曜日にとっての昨日、火曜日と同じように、私は風呂の中にいます。
「2月27日の原点」
2月27日は火曜日ですが、あえて月日を示しているから、詩中の火曜日より一週前の火曜日のことだろうと思います。
カレンダー上に打たれた点が、3月をめくり、木曜日の8日まで伸びようとしています。その原点(ショックを伴う出来事なんだろうか)は内と外で往来を遮断されています。私は私有地の内、家庭内の更に内、風呂の中で激しく原点を思っています。(激しさは文体のうえであくまでも客観視されていますが)
原点の取り逃がしのあと、高ぶった感情に羞恥心が混ざりはじめます。剣をもたない私の、シュークリーム屋さんへのうやむやな返答が風呂場にもわもわと広がります。
蒸気に満ちた室に、汽笛が鳴り響きます。汽笛は霧笛、汽笛編は霧笛編。霧笛(汽笛)は水曜日の夜を越え、船舶と列車は家庭を連れて木曜日を迎えます。
家の中の私、外に向かう私、私の中の私がそれぞれの円を持ち、外周で触れ合っています。
なんだかとても勉強になる詩でした。
書いていただいて、ありがとうございます。
ちょっと遅すぎるまとめですが、汽笛編の回、とても楽しませていただきました!!どの作品にも、どこまでも読めるんだ、という発見があって、書きながら読んでいくのが嬉しかったです。
ありがとうございました!
- ひらめ
- 2018/03/14 (Wed) 07:20:53