髪ほどき隊が順番に町をめぐっている。
それは/
風がかろやかに色とりどりのすだれを撫で、全員の気分がそれほど悪くはない日のことだった。
【溝売りさん】の理髪店では真鶴に行った思い出を壁面で自慢していて、どうしようもないなと囁かれてもめげずに自慢しつづけて、頑固と高揚が分かちがたく受精してしまった結果として理髪業のかたわら真鶴お土産店を営んでしまっていた。あそこの【溝売りさん】の旦那は、おかしいから、わたしたちが前髪をみじかくする度に、真鶴のきれいな思い出を姿勢を正して演説し、わたしたちが、荒唐無稽な夢を見るほどにこの土地に生きることが不満なのかね、と冗談でたずねると沈思黙考してしまう。あそこの若奥さんは、同様におかしくなっていて、(共鳴し合うんだ。ああいうのは)、わたしたちが祈りのために鶴を折れば、その先端を折りひろげて真鶴のにおいに変えてしまい、わたしたちが辟易して、手裏剣を鶴の代わりとしてしまえば、支笏湖の辺りをうろうろして(何時間も、何時間も、合計すれば何千時間も)不安を見せつけてくるから、奥さん、奥さん、奥さん、わたしたちには分からない、理解できない、一体真鶴に何があるというのか、お前たちはただの床屋なのに。
すだれに呆けた風が吹く。
先生、あの風はにび色と言うのです。季節を好く度によくはためき、通水するように確かに流れて、おそろしいくらい柑橘を育てて、わたしたちの都を富ませる。
先生、手のひらの皺に届くほど光量が多くて、今日はとても外に出られないって、どこの足場でも職人が話していて、子どもたちはみんな、体育館に避難している日で
明日、わたしの風が剥がれてしまうので、きっとこの町にも【くも膜下出血】が訪れてしまうと思う。倫理に照らし合わせるのならば、有事(【くも膜下出血】とか)に備えて緊急時対応マニュアルを作成しなければいけないのだけど、無線が、真鶴の、遠い虹色の電波が干渉して、(正しく導こうとしていたのだけど)わたしたちの理髪店のなかが、発着場のようにうるさくて、楽しくて、他人の気配ばかり外窓に咲いて、申し訳ないけれど作れなかった。
先生、これは、真鶴?
「これは、わたしたちの都市。わたしは先生じゃなくて、あなたと同じねこ。あなたと同じさかな。あなたと同じルーマニア産植物。あなたと同じ穀物地帯。あなたは、誰ですか?あなたの名前と、できれば、あなたの都市の名前を教えて。わたしは、先生として(外窓に光りかがやく、月として)立ってみせるから。あなたは、誰
わたしたちは、理髪店をやめて、この町でただの温かさになる。
わたしたちは、引き続き、かれらの髪を切るけれども、かれら(【すみともさん】。蛸漁が得意な名刺印刷屋。【色丹さん】。カラーフィルムの巻物の行商を地道に続けている。(もうからない、もうからない、)【沈まないふねさん】。すみれ色の丘で生まれてからずっと胸の肉が擦り切れていて、わたしのかつての友達だった人。沈まないふねさん。わたしは、くなしり諸島。わたしは、りんごのはら。わたしは、くじら農家。わたしは、非政治たき火。わたしは、すべてのくだらない丘。あなたの光景にはきっと一生含まれない。それでも、ひとときでもあなたと一緒にこの町を歌うとき、夕陽が照りつけて受水槽が高層の丘で燃えているとき、セスナがあなたにとって二億色の星として飛び、雲に消えるとき、わたしの受容できないあなたが手のひらから繋がっていて、わたしの受容されない土地に、わたしと共に駆けていくから、わたしはあなたのかつての友達として追憶する。あなたのことが好きだった。かつてひこ星として。
夢に見た理髪店の撤退が今日も実現されず、ねこは干からびた胸でつらい1日をおくる。
わたしの真裏はあなただった。髪むすび隊は町の周縁で遊んでから正確な円になり、巨大な都市を飲み込んでいく。反物屋が今日もこの町を象徴している。わたしたちは古い鎖を嗅ぎ分け、ねこがくわえてきた切ない胸のまま、においを器によそう。
「真鶴は、風光明媚な土地で。先日、汚い牛の訪問を受けたとき、わたしは絶望のあまり既視感の晴れ間に確かに真鶴を見たのです。確かに土地を見た。わたしはその土地で、生き、枯れ、また生きるくちなしや、そば屋や、どら息子でした。わたしは、その土地で波打つ樹木の真上の雪や、刈り取られるきのこでした。わたしは真上の屋根でした。わたしは校舎の屋上で、その上の金星でした。
まなづるよ。風光に一筋の太いこげ跡が走り、村民が真剣な危機を感じたときには、もうすべてが剥離していた。まなづるよ。きみたちは過去の海。ぼくの記憶のなかでいくらでも強く空色で、いくらでも輝く雪の色で、ぼくがねこのふんから伸びてきたような前髪を怒りにまかせて切り落としているとき、お前の雪はあらゆる塹壕の色をした高天ヶ原で幾度も分解し幾度も分光し幾度も分色し幾度も破裂し幾度も吸収し幾度も蒸発し幾度も垂れ下がって幾度もぼくの鼻のうえでにおいを発し、ぼくはきらめく鼻のにおいで、駿河湾の朝焼けや、楡山の野焼きや、綿あめの渦巻きの先端をたべる息子や、その娘や、その手提げの紺色の星に、真鶴、ぼくは既に温かいものを見終えてしまったのだと思って、まなづる、開業と終業の間で息苦しく、真鶴、ぼくの架空の妻、まなづる、ぼくのほんものの妻、真鶴、ぼくの架空の客、まなづる、ぼくのほんものの客、真鶴、ぼくは、どうして生きていられるのか分からなくて、きみの星だけが光って見えたから、まなづる、ぼくは属さなくてもいい。ぼくはあなたに含まれず、土地に含まれず、肉体に含まれなくても、いいと思って。
「先生、笛の音が聞こえる。鼓笛隊はみんなはげているから、この災厄から逃れたのかもね。
それでも、やぐらや、かすかな光はきれいだ。町は海なんかじゃないから、水仙も、標識も、ひとつずつ植えて、ひとつずつ立てよう。床屋なんか、いくらでもぶれるもの。反物屋だって、絹豆腐専門店だって、昼間も強い夢の引いた跡がはっきりと散光していて、みんなが口に出さないだけで、この町は揺るぎない公園みたいではないのに、
先生、今日見つけたの、ここの真鶴だけ、生まれていないんだよ。
先生、わたしは誰にも秘密で真鶴を蹴って、真鶴を海に落として、真鶴はわたしのまちの海の中で息苦しく死んだのだから誕生しなかった、だのに、わたしは貝がらの破片もタイルの目地の解れもみんな生まれられなかった真鶴みたいに見えてしまって、悲しくて、そこらのねこみたいに夜が更けるまで野原でうめいてた。
あそこの、旦那さんも、奥さんも、おかしいから。反物屋のご主人なんか、気を遣って、卵焼きなんか持ってって。ほら、おれらには分かんねえからって、奇妙な色をしたヘアピンばかり庭に撒き散らしていたとき、誰だって同情して、この町が、真鶴という名前ではなくとも、深い霧の中から肉の一部を露出させたねこが歩いてきて、おれたちの上も、あなたたちの上も必ず通るからって、くだらない説得しかできなかったのだが、理髪店は揺れずに真鶴の話をしながら、おれと、おれのこどもたちの前髪を切り揃えていくので、ほとんど理不尽だと分かっていても、この町はこの人たちを証明してしまう。
- しめさば
- 2019/01/16 (Wed) 00:02:51