◯天国
シーツ越しにバラを手折っている。あなたが駆けのぼるほどしぼむ花、壊れていく苔が、澄み切った水面で泡立っている。光の網目の上を歩いて、くちなしの花弁を踏む。真緑の葉を踏む。こごえた甲虫を踏む。ここは、やさしい死者が休みなく許されてしまう場所。切り取られるような風に目を閉じる。たとえば、何も見ようともしない、聞こうともしない、ひとつも自分で考えない、白い幽霊になるとしたら、そのときはあなたの伽藍に触れられるかもしれない。そう思う。
◯地中海
レモン菓子を敷き詰めたふろしきの口を閉じ、全ての病室を訪ねていく。先生、わたしには道化師の資格も道具もないけれど、(美しい風を横切ることはできる)せめて、つまらないお土産話をみんなにしてあげることはできないかと思ったのです。あたらしさが遠のいていく話。憎まれても困られても、どうしても登場することがやめられないから、「患者さん、あなたは、『雨季を呼ぶ人』と呼ばれている」先生、模造紙の話をしても良いですか、
◯模造紙
画家のようだと思った。星が干上がったあとの川底にぶどうを転がして、一粒ずつしなびるまで時間をかけて飲み込む。舐める。季節を間違えていてもいいから、どうかそのまま描き続けてください。先生はもういないけれど、名前の分からない街の人たちも、すぐに忘れてしまった病人たちもここにはもういないけれど、のぼるようにあなたの画布をちぎれば、(ココア色を点睛しないでください)「並木に掴まり歩きながら激風に耐えねばならなかった。のこぎりの縁についた水滴にひろがる空色。鉱物色。いっしょに歩こう、という言葉。たった一人で描き続けろ、という言葉。川底の石に垂らした青の絵の具。あなたの裸体にこぼす鈍色。あなたにとっての美しいもの、その色彩を三角片に砕いて、あなたの身体に貼り付けて描写する。」「画家、みたいだ。あなたは。」
◯有頂天
熱砂は濃くうずまいても、やがてかすれて過ぎていく。『雨季を呼ぶ人』が、今日は取り壊し間近の廃病院を訪ねている。「空は画布です。雨戸から滴る陽光がコートを温めている。コートの下には絵の具が塗り固められていて溶けない。画家さん、あなたにもお土産話をしてあげましょうか。
熱砂はやがて過ぎる。傷が治ったら、二人できっとどこにでも出かけよう。本屋の軒先で雨宿り、なんて響きがよいでしょう。」
あなたはたった今ものぼっている。窓を開けて、たばこの煙を一緒に上らせればあなたも含め誰も気付かなくても、何かの奇跡にはなるのだろうか。根まで掘りおこされた花に天が水を遣る。張り巡らされた光の網を通り抜けてきた雨水で、たばこの火を消そうと思って、できる限り腕を伸ばす。
- からふとししゃも
- 2019/01/25 (Fri) 12:03:17