「夢くらげ」と出題したとき、私のイメージにあったのはむしろdaydream(空想)の夢の方であり、そのニュアンスは拙作にも現れていると思いますが、しかし全く別方向のイメージから描かれる方も多く、本当に面白く読みました。ゴルコンダというのは実に不思議な空間だと思います。世界の半分は夜なので、人類のあらゆる表現も半分くらいは夜になって自然のようにも思いますが、絵画とか小説とか映画とかを参照すると(これも印象的なものですが)どちらかといえば昼の表現の方に比重が傾いているように感じます。人間の活動が主に昼に行われるからですね。夜は静的だからいくぶん表現として採りづらいというのもある。しかしもちろん夜というのが表現の死ぬ時間帯というわけではなくて、夜の中に描かれる魅力的な表現もたくさんあります。その一つがおそらく眠りであり、夢なのだと思う。
ネンさんとるるりらさんの作はどちらもまさに夜に見る夢をイメージして描かれていますが、気になって何度か読み返しているうちに、なんだか二つの世界観がリンクしているような気持ちになってきました。同じ世界を、ひとりはAという視点で、ひとりはBという視点で描いたというように。浮遊する人の心をくらげに託し、たとえばネンさんはシュルレアリスティックな夢遊病的な筆致で、るるりらさんは抱擁するような肯定的な筆致で。
ネンさんについては、表現自体はシュールと言ったけれどテーマとしてはシュールではなく、ここに描かれているのは現実に存在する現実的な問題なのかもしれない。主語が「社会人」に限定されているけれど、確かにこの社会は自我を同一化するにはあまりに肥大化・複雑化しすぎている気もします。wikipediaを読んでいるとこういう記述を見つけました。『刺胞動物門は、二胚葉性で、袋状の消化管を持ち、肛門がないのが特徴である。その具体的な構造としてはクラゲ型とポリプ型がある。ポリプ型が固着生活に適した姿であるのに対して、クラゲ型は浮遊生活に適した形と言える(by wikipedia)』。クラゲには淡水で生きられるものもありますがわざわざ浴槽に塩を入れるのが本格派ですね。海水は浮力を増しますから。陸上生物は海でも泳げますが、海洋生物が陸を歩くのは大変です。地球の重力を歩いていくのは、浮力なしには重たすぎるのかもしれない。そうやってくらげになることで夢遊病患者の彼はなにかバランスを取っているのかもしれないと思いました。
るるりらさんの作は非常に優しい筆致で、特に人の精神をモビールに提げたイメージがとても好きです。なぜ昼には空に浮いていたものが夜にはわざわざ海へ降りていくのかを考えると、その優しさがほの見えます。ネンさんもまた示していたように、くらげというのは人の深層心理における一種の回復体位なのかもしれない。我々がくらげに抱くイメージ。あるいはそういう願いを託している。「ひとしれず かがやいているくらげもんらは まるで夢のようでございますが/ひかりたくないくらげもんが いてるんのも しずかで/それもまた良い」、実にそうです、その通りです。我々が疲れた体や心にしてあげられるまず最初のことは諾うことだと思います。輝かない電灯の佇まいに美しさを見る眼差しはまさに肯定者のそれです。そして実際ひかりたくないくらげのことが、私はとても好きです。
一方マリィさんの作も近似したテーマを扱いながら(『空っぽだった/空っぽでピンク色の世界で/浮遊しないと生きられない』)、そこからもう少し遠いところを描いていて、どこかしら天国的な部分があるように感じました。精神世界的。遠いところを見ているのではなく、遠いところから「ここ」を見ているような感じ。身近な海として「浴槽」が実現されているのも興味深いです。つまりあくまでも肉体はここにあるという。柔らかいくらげと対比されているのはむしろ鉱物的/静物的な貝殻だし、『昨日蹴られた痣が痛』い。夢は天国を漂い、体はつねにここにある。初読では柔らかな口ぶりにカモフラージュされてしまうけれど、ゆっくり読んでいくとその「遠さ」というのは分裂により引き離される距離から生じているようにも思えます。痛みがあるが、その痛みが肉体から生じるものなのか心から生じるものなのかは判別できなくなっていくし、たぶん両義的なんだろう。そんな風に感じながら読みました。
私は中国語のことはほとんど知らないのですが、光=空っぽというイメージは、動作が全て完了し、後にはもう何も残っていない、という意味から来るそうですね。何かが終わってしまうことを、無ではなく、そこに充填されるものを以って表わせるなら、私の夢もきっとそうあって欲しいと思います。
- 洗剤イヤ子
- 2018/09/03 (Mon) 03:24:54