白 バランスとれてる
ぎわら かなりグキグキしていた
愛萌 たいへんよかった
博喜 かなりのミニマリズム
こうだたけみ あっちゃこっちゃのいきかたがいい
まいきー 携帯で読んだらよくわかんなかったがPCで見たらしっくりきた
吉本隆明は、「言語にとって美とは何か」の中で、言葉の意味を2軸の座標に置いて示した。自己表出と指示表出とという啓発セミナーギリギリの隠語みたいな用語で、感動詞から助詞助動詞とはじまって動詞代名詞名詞に終わる扇型を表したり精神病(心的現象)を二軸の上で表現したりする。これでいわゆる言葉や感性の「価値」というやつを表そうとした。通貨の価値、みたいなもんで、芸術の価値を2次元の座標ではかろうとした。実際、これを図で見せられると異様な気持ちにはなる。
この若い頃の発見に、老境の吉本翁はしたり顔だったが、たんなる座標になんだってそんな価値があるのか、読み初めは良くは分からなかった。
感情と理屈の二元論、似たようなことはじつは夏目漱石も文学論の中で言っている。ここではFが意味でfが感情だ丁度Fが指示表出、fが自己表出にあたる。
しかし、呼吸や歩行とほぼ変わらない詩をく書くという日常的な行為を前に、なんだってへんてこな理屈が必要になるんだろうか。
理屈の世界がほとんど失われて、意味の価値付けが甘くなれば人はそれを相対論と呼ぶだろう。みそもくそも、韻さえふめはなんでもありの世界。例えばこれは、パノラマ島、だろうが硫黄島だろうが、同じ島として等しく捉えるような考え方だ。しかし実際にはパノラマ島にはパノラマ島の、硫黄島には硫黄島の歴史や血塗られたかなしみやよろこびがある。価値がなんでも相対化してしまったら現実と混在すれば尊厳をないがしろにする事態もあるかもしれない。金(言葉)で何でも買える世界といえばいいだろうか。まあ、実際がそうじゃないのもよくわかってはいる。
マーケットに流通する作品が如何に曖昧だったとしても、市場での評価はいまや圧倒的だ。Disney+のアベンジャーズに打ち勝てるフレーズを個人の韻文が生み出すのは不可能にも思えるが、インフルエンサーの一言がある人にとっては天啓のように聞こえてしまう。結局、こういった日常の仕組みを支えているのは相手の優しさだったり、友愛だったりする。
文学ができた頃から、いやもっとそのまえから、愛情を媒介してきたのは記憶だ。この記憶というやつは、シャノンの情報理論と相性がいいし、漱石、吉本が言ってた二元論も、記憶においてはエピソード記憶(自分史:f:自己表出)と意味記憶(人類史:F:指示表出)という分類で分けられる。シャノンの情報理論でいうならこれは情報と符号(記号、コード)だろう。表現の中で自分のエピソードが強すぎたらひとりよがりになるだろうし、意味が強すぎたら感じることがなくなってしまう。エピソードと意味の間のいい塩梅をうまく狙ったところに、人の記憶にすみつくよい作品が棲んでいる。シャノンの考え方自体は、今使ってるインターネットのしくみをだいぶいい感じにしてくれた。
シャノンの情報理論は詩人にとって一言の中にどれだけの気持ちをぶちこめるか、と言っているに等しい。それは、送り手が勝手に決めていいんだよとも言っている。と同時にその詰め込まれた思いが、読者にどれだけ届くのか数式でしめした。それは通常驚きとともに読者に受け入れられるもので、媒体を記憶におけば、とにかく作品は記憶にとどまらなければ意味を保てない。かといって全く知らない言葉じゃ意味が通じないし、すべて意味が通じで見たことある情報だと、新鮮味がなくて書いてる意味がなくなってしまう。
じゃあその適切な塩梅は、というと、TPOや関係性があるわけで、塩梅をとらえるのに座標は使ってもいい概念だし、これは先に示した相対論でなにもかもがすべて同じになって人の尊厳が失われてしまう、というものの見方とはちょっと違う。
AIやら立体技術その他のはたらきによって、すぐに、望むだけで誰にでもなれる時代がくるだろう。かだらや記憶も交換できるようになるかもしれない。詩の言葉がザイルのようになって何かつなぎとめるはたらきをしてもらったら、これから起こるかもしれない不都合のなかで、ずいぶんと過ごしやすいんじゃないかとも思う。
- A
- 2023/07/23 (Sun) 21:04:30