W コンパクト
阿ト理恵 いい感じ
白 いい感じ
博喜 散らかり様がえぐい
まいきー びっしり感が良い
ぎわら シーマンショー
こうだたけみ ワンタッチ感が良い
愛萌 安定の走り
ひとつの文章にどれだけの思いを込めることができるのか?シャノンは本人が望めば1文字の中にだっていくらでも、と言った。しかし本当にそんなことが可能になるのか。
例えば狼煙をあげて詩を書くとしようか。基本は遠くに雨雲が見えるタイミングで、いちはやくのろしをあげる。のろしがあがったら明日は雨で、あがらなければずっと天気は晴れたままだ。
例えば長くひでりに悩まされている集落だったらどうだろう、狼煙が上がれば人々は歓喜し、踊りを踊り歌を歌ったかもしれない。あるいは山田洋次監督高倉健主演の幸せの黄色いハンカチを思い出してもらいたい。サインは心だけでなく人を動かす。ハンカチがカラフルである必要はまったく無い。ただ伝えるための決まりがあがればいい。これは、貫之の時代から何も変わってはいない。伝え方はシンプルでよい。
この感動すら、事前にたがいの約束があって、守ったからこそ内容が伝わるものだ。なるほど、情報がときに人に感動を与えるのはわかった、うつくしさや驚きを与える芸術も同じ尺度で測っていいものなのか?
もちろん、とシャノンは言う。
情報の価値は物事の起こりにくさによって決まる。起こりそうも無い事柄に価値がつく、けれど、そもそもまったく起こりもしないことには価値は発生しない。ありそうでないギリギリを狙うのが価値の最大化だ。(最大化したらえらい訳でもないが)
事前に起こりうる最大の可能性として奇跡がある。ベンヤミンがアウラと言うのだって希少性から話ができる。
人間だろうが虫ケラだろうがカミだろうが宇宙人だろうが、ヒトに霊感与えたけりゃ記憶(意外性)に頼れということになるだろう。だから海が割れる必要があるし水がワインに変わる必要があるし、牛の内蔵は血を流さずに取り出されないといけない。信じたいものしか信じないという言い方もできるが、とにかくそれで感動もしたし驚きもした泣きもした。媒体がヒトである限り、言い伝えの仕組みはここ数千年それほど変わりがない。もしかしたら数万年かもしれない。
ありったけの思いを込めて発した言葉が、受け取り手の可能性で無限に拡散されていく。それは心に響くからで、もちろんかき消されることもある。送り手と受け取り手が手を繋ぐことで、思念は100%のシンクロ率を誇るが、そもそも100%フレーズがたがいの頭の中にあったんなら、最初から分かりあってるわけで、新たに交換する必要が無い。お互いのピントがずれていて、価値や目盛りが違うからこそ伝える意義があって、記憶に残るよすががある。あとには無限のバリエーションが累々と続いていく。
それでは、漱石や吉本がFとか文学体とか、言ってた理論は今日びどの辺でどう使われるのか?
ひとつには新聞だか論壇だか文壇だかカルトだか、ワンイシューで済む知識体系や集まりには、意味やら情緒はひらたく共感も得られる。つながり(バンド)も濃ゆい。しかし、世の中ここまで趣味趣向が多様化していくと、言葉の選び方ひとつ、さまざまで、なかなかひとつの方向性にはさだまらない。
思うに文学体だかFだか意味記憶というのは、スマホでいったらやれカメラの解像度があがったとか数が増えたとか、元Twitterで新しい絵文字に対応しただとかいったことに等しい。黄色いハンカチで言えば柄が選べるとか大きさが選べるとかそういうことになるか。役者がCGになってグリーンバックで演技するものが「ほんもの」に見えるとか、いろいろ。
昔ならそれを教養とか意味とか物語とか共同体とかコードとか呼んだ。枠組みは物事をささえてくれるし、確かになくてはならない要素だが、作品自体(文学体、作品中の形式や意匠)がそのジャンルでの表現幅を広げてくれると言うのはまやかしで、どちらかというと表現をもたらしてくれるのはいつも別分野からのクロスオーバーなものじゃないかと思う。いつも黒船を待っているカルト。
暴力的な表現が即愛情と言えないのは、コンプライアンス時勢下でよく分かる。愛情にわがままや暴力が含まれるのかも、驚きから遠ざかるのならまったく別の議論だ。そして驚きの表現の選択肢はみな同じで、ひとたび言葉を選んだなら、その責務は送り手本人にある、その結果、受け手でその妥当性が決まる。うけようがすべろうが、自分の手を離れたら、もはやどうにもしようがない。
奇跡的に受け取られたものは語り継がれていく、いや、無意識の沼に沈んで、語り継がれないもののほうか多いかもな、けれども我々は書き記すことをやめない。ある日太陽風にすべてがかき消されたとしても、めげずに石を削ってうたにするだろう。古い言い伝えの中にもそうある。
- A
- 2023/08/19 (Sat) 14:13:29